ここ数年で特に感じているのだが、生徒達の語彙力が極端に弱い。
先日、「足元を見る」という慣用句の語源を生徒に説明しようとしたら、そもそも「足元を見る」という言葉そのものを知らなくて驚かされた。
それが1人や2人ならともかく、学年順位一桁や偏差値70を取る生徒であっても、「なんですか、それ?」状態だったので、目が点に…。
おーまじかー。えーーーー本当に??本当に知らないのー???…そっかー(´・ω・`)。となってしまった。
語彙力がない理由については、今回は主題にしない。
語彙力をつけようね。という話も、今回は置いておく。
「だから最近の子供達は~」という老害ムーブも、今は必要ない。
今回私が言及したいのは、物事に対して疑問を持たずにいることや、知らないものを聞いた時にそのままに出来てしまうことの危うさについてだ。
「竹馬の友」については、私も「走れメロス」以外で聞いた記憶はないため割愛しよう。
しかし、この国で15年生きてきて「足元を見る」という単語に一度も出会わないことがあるだろうか。
無いんじゃないかなぁ…。
無いと思うんだよなぁ…。
一度くらいどこかで、目にしたことや耳にしたことはあるのではないだろうか。
単語を知らないこと自体は、百歩譲って良いとしても、知らない単語に出会った時に疑問に思えないことは問題である。
その問題の一つは、語彙が増えないことだ。
「スマートフォンが~」だとか、「活字に触れる機会が~」と言う以前に、語彙を取り込む姿勢が出来ていないのだ。
どのような媒体で語彙に触れるにしても、初めて出会う単語と仲良くならず、そのままサヨナラをする姿勢でいるといつまで経っても語彙が増えない。
その一方、姿勢が伴っている生徒はスマホだろうが漫画だろうがアニメだろうが、あらゆる媒体を通して語彙をすごいスピードで取り込んでいく。
そして、これが一番深刻な問題だと思うのだが、語彙が無いと人の話が聞けなくなってしまう。
学校の先生や大人から「人の話はちゃんと聞きましょう」とは、誰もが言われる。
これを、「黙って聞くこと」だと捉えてはならない。
小学校低学年であれば、それで良い。
しかし、中学生にもなって「黙って話を聞いている=人の話を聞いている」と認識していると様々なエラーが発生する。
まず、語彙力が無いと、話者の内容が頭に入らない。
生徒達は、保護者との会話・テレビ・友人との会話・学校の先生・Youtube・本など、様々なものとの対話を行う。
語彙力が無く・自分の知らない言葉に疑問も持てないと、それらの対話や会話は、非常に薄いものとなってしまう。
話者が100の内容を伝えた際、賢い子や語彙のある生徒は5くらいは持ち帰ってくれる中、語彙力がない生徒達は「なんか楽しい話だったな」「よくわからないけど、真面目な話をしていたな」程度の認識で0.1も伝わらないのだ。
1/1000は、純情な感情が空回るどころの話ではない。
毎日、凄まじい量の言葉のやり取りをするに辺り、その伝達率が低いということは学習効率に大きな影響を及ぼす。
親が発した言葉の何割を、その子供は理解しているだろうか。
学校の先生が伝えた言葉の何割を、その生徒は理解しているだろうか。
塾の先生が伝えた思いの何割を、生徒達は理解しているのだろうか。
人は毎日、言葉にふれる。
右耳から入って左耳に抜けていく生徒がいる。
その一方、一つ一つの言葉を咀嚼して、相手の言わんとすることを理解しようと歩みを進めるものがいる。
小学生の頃から、1日1日、大きな大きな差がついていく。
こうして毎日のように開いていった差は、中学生になって塾に放り込んでなんとかなるレベルでは無くなっている。
更に言えば、人間は他者との対話だけでなく、自分自身との対話にも言葉を用いる。
自分は、人生で最も多く対話を行う相手だ。
数多くの情報が脳内を行き交う。
その膨大な情報を、適切な語彙で処理出来る人と、そうでない人では、やはり成長速度が大きく異なる。
一つ一つの単語を知らないのは構わないが、それをそのままに出来てしまうと、成長が止まってしまう。
生徒達には、未知のものを吸収する気概を持って欲しいし、私はそうなる仕組みを作らなければならない。
言葉は人生を豊かにしてくれる。
内容がまとまっていないが、長くなったのでこのへんで。
言語化すると、色々と見えてくるものだ。
この記事の、最初のタイトルは「【指導の話】「足元を見る」・「竹馬の友」を聞いたことがない生徒達」だった。
ところが、当初予定していた内容からは随分ズレた内容となったため、タイトル変更。
続きは、またいずれ。